Tokyo 7th シスターズ -僕らは青空になる-

2月26日、『Tokyo 7th シスターズ -僕らは青空になる-』が公開されました。観に行った。

特典色紙はロナちゃん、ナナシスで一番の推しです。777☆SISTERSで一番芯が通ってるところが好き。


キャラクターデザイン
いやー、可愛い。歴代アイドルアニメでも上位のクオリティではないだろうか。キャラデザが発表された段階でも力を入れてるのは分かってたけど、実際にキャラクターを動かしたときのことまで踏まえて入念にデザインされてる。普通この手の単発のOVAだと、予算規模の関係でキャラクターデザインに割くリソースってどうしても少なくなる傾向があるんだけど、相当こだわったのを感じた。映像化する意味のあるものにしたいってこういうことなのかと納得させられた。

ナナシスとハコスタ
さて、肝心の本編であるが、ナナシスを知らない人にも観てもらえるものにしたとは言っているが、実際のところEPISODEシリーズというナナシスの中心的ストーリーと被るところの多い内容になっている。

ナナシスでは作中にハコスタという概念が登場する。これは次世代アイドル劇場型スタジオというものの通称で、簡単に説明すると事務所やレッスン施設、ライブ会場が一体となったものである。事務所所有の施設という点では、現実におけるAKB48劇場がそれに近い。

ここで重要なのは、ハコスタはアイドルのためにある場所であるということだ。アイドルにとってよりドメスティックな空間である、この1点においてコンペティション施設やスタジアムのような一般のライブ会場に対置される。すなわち、「大規模で華やかなライブ」という商業的なプロセスを介さずとも、アイドルとしての活動を可能にする空間が実現されているわけだ。

その意味でハコスタという存在は、普段直接的にクローズアップされることはないものの、ナナシスの核心に近いところにあるといえる。そしてこのハコスタに焦点を当てたのが今回の映画である。

おそらく、今回八角スタジオのラストを飾るのは777☆SISTERSである必要性は無かった。むしろ主体は数多の歴史を紡いできた八角スタジオと観客の側にあったといえる。それは777☆SISTERSの奮闘によっては集客はかなわなかったという脚本にも表れている。

ただ、八角スタジオと観客という二項関係を中心に成立する最終日のライブに、彼女らも演者という立場で寄与することができる。「誰かの背中を押したい」という願いは、分かり易い直接的な救済(今回で言えばスタジオの存続)をもたらさずとも、その意思を持ち続ける限り、巡り巡って何らかの形で結実するという話だった。

ストーリーの主体が別にあり、777☆SISTERSがそこに関与するという構造は、解散後の2037年を描いたハルカゼにも見られる。ただ今回の場合、時系列はハルカゼと対称的に、彼女らがアイドルグループとしての知名度を得る、まだ何者かになる前の時期の話だったと捉えることで見通しが良くなるのではないか。また、ハルカゼが卒業という門出、未来に向けて送られた曲であるのに対し、本作は八角スタジオという歴史ある会場の最後を描いたものになっている。そう考えると『僕らは青空になる』は「過去からの蓄積に対し我々は何ができるのか、そこにどのような意味が生じるのか」という問いかけだったのだと思う。



主題歌『Departures -あしたの歌-』とナナシスの音楽について

主題歌『Departures -あしたの歌-』は本作の明るい雰囲気と「誰かの背中を押す」というテーマを象徴するものになっていました。
『NATSUKAGE -夏陰-』『Across the Rainbow』とEPISODEシリーズの苦しい戦いを想起させる曲が続いた中で突き抜けた明るさが沁みるぜ。

他に語る機会も無さそうだし、自分がナナシスの音楽について考えていることをここに記すことにします。

さて、初期のナナシス音楽は2034年の未来を想起させるエレクトロサウンドを志向しており、二次ドル音楽の中で独特の地位を確立していました。ですが、曲のリリースを重ねるに連れナナシスの音楽はジャンルの中で比較的とスタンダードな方向に寄っていきました。ここに自分は明確な意味があると思っています。

そのためにはまず、EPISODEシリーズを参照しなければならない。
まず5.0の最後、つまり時系列的にはEPISODEシリーズで一番の最後シーンになる。AXiS以降姿を消していた七咲ニコルが芹沢モモカ、晴海シンジュの前に姿を表す。

彼女はもう六咲コニーじゃない
私の知っている七咲ニコルでもない
ただの人間で、ただの女の子だ
たくさんの過去とたくさんの未来を持った
たった一人の女の子

ここで、七咲ニコルは一人の少女になったとことがテキストで明言されている。

また6.0のエンディングでは777☆SISTERSの春日部ハル以外11人の今後が一人ずつ示される。6.0直後の動向であるが、777☆SISTERS解散またはアイドルを辞めた以降のことを想起させるに十分な内容である。


その前のライブシーン周りでもで示唆的な描写がいくらか。

ナナシスを茂木の作品と見る場合、6.0の終盤は実際の展開より示唆的な描写やifの言明を見逃してはならない。恐らく、本来彼の描きたかった筋書きが込められている。ナナシス自体は続くことによる、落とし所といったところか。

極めつけは、6.0の最後のラストシーン。怪我の療養でグループを一時的に離れたハルは東京湾の孤島で一人佇んでいた。EPISODEシリーズはこのスチルで締めくくられる。そこはナナスタでもなく、777☆SISTERSの皆に囲まれているわけでもない。つまり今まで描かれてきたアイドル的な文脈から切り離されて、一人の少女としてこの場所にいることが強調されている。ラストシーンであるから、最後の最後で彼女は「普通の女の子になった」と解釈して差し支えないだろう。

このように反復的に描かれている通り、劇中では描かれないような先の未来に関して、「アイドルもいつかは普通の女の子になる」ということをこの作品は非常に重要視している。「アイドルはアイドルじゃなくてもいい」と度々語ってきた本作にとっての必然である。

これと相似形のことが音楽面でも起きていると自分は考えていて、つまり、ある種の哲学や精神性を内包していたナナシスの音楽が、やがては普遍的なアイドルの文脈の中に溶けていく。777☆SISTERSをはじめとするナナシスの音楽性の変遷にはこのような意味が込められているのではないかと思うわけです。

そう考えると、普遍性な前向きさを備えた曲である主題歌『Departures -あしたの歌-』はこのプロセスの集大成とでも捉えられるような気がします。(そしてこの延長に、劇中2043年の曲SEASON OF LOVEの『Fall in Love』がある。EPISODE5.0はアイドルをやっている普通の女の子の話であることに意味がある。)

『Shooting Sky』が世に放たれた今、セブンスシスターズについても同じようなことが言えると思う。

最後に
EPISODEシリーズに限らず様々な媒体を通してナナシスと茂木が発信してきたメッセージを可能な限り詰め込んだ映像だったと思う。正直ここまで全部入れてくるとは思わなかった。支配人以外が観てついていけるかはともかく。

そのうちBlu-rayが発売されるだろうけど、当時このコンテンツは何を伝えようとしていたのかを、端的に思い出すための足掛かりとなるようなフィルムになると確信している。
あの長いテキストを読み返すのも骨が折れるしね。

『Departures -あしたの歌-』はいい曲


追記
3月13日、スタッフトークショー付きの上映に参加した。

茂木が0.7,5.0の制作の息抜きにアニメの制作現場に雑談しに行っていた話が印象的だった。他のインタビューでも語っている通り、EPISODEシリーズの執筆は身を切り売りするような作業だから、基本的にしんどいのだろう。肩の荷が下りたのかこの日の茂木は表情が穏やかだった。
最後の挨拶で「皆さんがちょっとでも自分の生活、暮らしにプラスの効果があったら満足です。」と話していたが、少しはその想いに応えられたかな。
最後に間近で見れて良かったと思う。